GUEST INFORMATION

中町 公祐

慶應義塾大学サッカー部 監督

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慶応義塾大学 サッカー部監督

群馬県高崎高校を卒業後、湘南ベルマーレに入団。 同年に慶応義塾大学に現役合格し、同大初の在籍しながらの J リーガーとなる。 湘南ベルマーレ所属 4 年で、66 試合に出場するも 2007 年戦力外通告。 後にサッカー部に入部し、1 部昇格に貢献。 同部在籍中にはユニバシアード日本代表に選出され、世界大会銅メダルを獲得する。 慶応義塾大学卒業後は、当時 J2 のアビスパ福岡に入団。
1 年目で J1 昇格を果たし、翌年よりキャプテンを務める。
2012 年より横浜 F・マリノスに移籍し活躍の場を移す。
2013 年シーズンは最終節まで優勝争いを演じ、第 93 回天皇杯の栄冠を手にする。
2014 年シーズンより、横浜 F・マリノス選手会長に就任。新たなイベント企画や集客案を形にし、ピッチ 内外で奔走。 2016 年には、日本プロサッカー選手会の副会長に選任され、
日本サッカー協会や J クラブと共に J リーグの未来に貢献する。 慈善活動にも積極的に力を入れており、アフリカ大陸にボールを送る
「Pass on project」や、神奈川県内の NICU 出身者やその家族をホームゲームに招待する 「ひゅうごシート」がある。 2018 年末『アフリカに移籍』
J リーグの中でも歴史深き横浜 F・マリノスの契約延長オファーを断り、
J1 屈指のクラブからは例にないアフリカ東部ザンビアプレミアリーグへの挑戦。 この移籍やこれまでの活動が日本サッカー協会の目に留まり、現役選手初の JFA 国際委員に就任 NPO 法人 Pass on の代表理事として、より良い『真のアフリカ支援』を追求。 JリーグではJ1通算183試合15得点、J2通算101試合12得点を記録 2024 シーズンより慶応義塾大学 サッカー部監督に就任

今回のゲストは、元プロサッカー選手で異色の経歴を持つ、慶應義塾大学サッカー(ソッカー)部の監督に就任した中町氏をお迎えし、輝かしい功績に隠された努力や苦悩、アフリカ移籍と国際支援活動などを経て現在に至るまでを限られた時間のなかで聞かせていただいた。

1:プロサッカー選手生活と大学生活の両立

進学校である群馬県高崎高校を卒業後、湘南ベルマーレに入団、同年に慶応義塾大学に現役合格し同大初の在籍しながらの J リーガーとなる。 Jリーグ入団が決まりながらも受験をし慶應大学に進学することは非常に異色である。しかし、大学生活は体育の必修科目さえ取れない程にプロサッカー選手生活と大学生活を両立する事は大変だったそうだ。湘南ベルマーレに所属したいた 4年間で、66試合に出場するも2007年に戦力外通告を受けるが今までサッカーで自分を表現し打ち込んできた中で価値がないと突きつけられても「サッカーに対する情熱は失ってなかった」と当時を振り返り、地方のクラブへ行くなどの選択は無かったと話すように慶應大学のソッカー部に入ることへの決意は必然であった。プロはチームメイトと言えどライバルであり時には仲間を蹴落とし這い上がるとてもシビアな世界だが、アマチュアは試合に出れない仲間も全力で応援するなど両極端と言える世界で戦ったからこそ新しい視界が開け、より人の温かさに触れ幸せを感じたそうだ。更に慶應大学のソッカー部は厳しい組織体制で組織の一員としての立ち振る舞い、どう貢献するかなどを大事にしており学びも多かったと語る。ソッカー部在籍中は1 部昇格に貢献し、ユニバシアード日本代表に選出され世界大会銅メダルを獲得するなど爪痕もしっかり残しているのは流石の一言である。プロ復帰後は当時 J2 のアビスパ福岡に入団し1年目で J1昇格を果たし、翌年よりキャプテンを務める。2012 年より横浜 F・マリノスに移籍し活躍の場を移し、2013年シーズンは最終節まで優勝争いを演じ、第 93 回天皇杯の栄冠を手にする。2014年シーズンより、横浜 F・マリノス選手会長に就任し新たなイベント企画などを実施したそうだがこの選手会長は挙手制とのことで、中町氏は財源を作りチームのために何かできればとの思いで名乗り出たそうだ。イベント内容、スポンサーなど全てを担いその中でもチーム選手がDJをしタレントやアーティストを招集したクラブイベントは800~900人規模の集客を誇り顧客満足度も高く大盛況だったと話す。名だたる選手たちがいる中で試合は勿論、ピッチ内外で奔走し、自分らしく表現した結果チームの1つのピースになれたとてもかけがえのない7年間だったと振り返る。

2:ザンビアへの移籍と国際支援活動

Jリーグの中でも歴史深き横浜 F・マリノスの契約延長オファーを断り、例のないアフリカ東部ザンビアプレミアリーグへ2018年から5年間の挑戦が始まる。なぜJ1屈指のクラブから給料も

1/10にまで下がるのを承知でアフリカへの困難な道を選んだのかと誰しもが疑問を抱くと思うがマリノス時代に国政支援活動をスタートさせ1番最初に訪れたガーナで“何か”を感じサッカー選手としてアフリカに行けないかという思いが芽生えたそうだ。とは言えサッカー選手として自分の中でやる意味や意義は必要なため様々なリサーチをし、元々イギリス領で英語圏であった事、国情の安定、プロリーグが充実している南アフリカのザンビア共和国に決める。そして33歳で決意したもう1つの理由として国際支援活動をしたい思いと同時にサッカー選手として自分の体が動け自信のあるうちにチャレンジしサッカー界で自分のキャリア形成を考えた時に今しかないと面白いのではないかとの考えもあった。しかし異国アフリカでの生活は大変なことも多く日本人が持つ考え方が通用しないのは当たり前で自分の考えを温度高めに話したところで裕福な国から来たお前が何をいっているんだと跳ね返されることもざらにあったがプロサッカー選手としてアフリカのやり方は尊重しながらも自分の意見を主張していかないといった意味が無いと根気強く言葉と態度で示していくなどの苦労も多かった。サッカーでの苦労と同じく国際支援活動でも強い思いを持っていったが物資や経済状況含めて現実的な問題によって自分の思いや理想とリンクしないなどの葛藤やもどかしさもあったそうだ。

3:人との繋がりと温かみ

苦労も多かったが捨てる神あれば救う神ありではないが国際支援活動で力となりてを差し伸べ、支えてくれたのは他でもない日本での活躍を応援してくれていたサポーターの人たちであった。ユニフォームの支援だけで800社ほどが集まりスポンサーなどの企業支援なども徐々に集まり日本人の温かさやありがたみを実感しそれがなかったら5年間も突っ走って来れなかったと話す。支援活動を始めたきっかけを改めて聞くと大学の同級生が運営するアフリカの子供達へ支援をする活動をNPO法人を通じて行なっていたことがきっかけでマリノス在籍中から活動に参加していたそうである。自身がマリノスの選手会長以外にもJリーグ全体の選手会の副会長も務めていたこともあり、サッカー選手の地位向上、社会におけるサッカー選手の立ち位置などを常日頃考え、自らが実践し発信することも念頭におきながら支援活動を行ってきた。自身もお子さんを亡くされた辛い経験がありその時にサポーターの方達が支えてくれたことが大きな励みとなり人との関係性の重要さやありがたみを体験しているからこそアフリカでの活動は重要であったと語る。「口だけではなく本気かどうかを見せるって重要じゃないですか」とサラッと言っていたが、なかなかできることではない。ましてや現役選手との二足の草鞋である。世界中のサッカー選手やたくさんの人に届き継承していって欲しいと願うばかりである。

強い志を持ちながらアフリカへの決意をした中町氏であったが試合中に相手選手との接触により頬を裂傷し肉が削がれてしまう程の大怪我を負ったことを理由に契約を1年残したまま理不尽にも解雇通告をされてしまいその後も1年以上も所属クラブが決まらず更にコロナウィルスによって試合も出来ない状況もあり心が折れかけたこともあったそうだ。輝かしい功績と裏腹に苦難も多い選手生活であった中町氏の引退後についてを後半で聞いていこうと思う。