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橋本 壮市

柔道家(パーク24株式会社 所属)

http://judo.park24.co.jp/member/

”パリ2024オリンピック競技大会 柔道日本代表” 静岡県浜松市出身。階級は 73kg 級。身長 170cm。段位は四段。得意技は「橋本スペシャル」と称される変形の袖釣 込腰、一本背負投。現在はパーク 24 に所属。

2024年開催のパリ五輪オリンピック73kg級、日本代表選手に決まった柔道家の橋本壮市選手。幼少期からの輝かしい時代、苦悩と挫折、次世代へと託す夢、若干32歳にして日本のオリンピック代表史上最年長と言われるほど過酷な柔道人生とは。

1:心身ともに強さを身につけた学生時代

静岡県出身の橋本選手は小学生の時にオリンピックに出ていた井上康生選手や鈴木桂治選手の姿をテレビで観て自分もオリンピックチャンピオンになりたいと思い小学1年生の6歳から柔道を始める。まずはオリンピックに出たい!ではなく早々にオリンピックのチャンピオンになりたいと思ったことに驚き、6歳の少年が自分のポテンシャルに気づいていたかは分からないが、始めた当初から県大会や全国大会に出場し上位の結果は残し自分の強さは自負していたという。当時の小学生柔道は無差別級だったため、体格が小さかった橋本選手は体の大きい選手相手に苦戦を強いらるも同じ体格の相手には勝てると自信があったと話す通り、その才能を見込まれ名門の東海大相模中学校から声がかかり小学6年生で親元を離れ寮生活を始める事となる。
自分よりも年上の中学生、高校生と寝食はもちろん練習を共にし実力を身につけていくが、唯一、心が安らぐ場所が学校だったと言うほどにまだ小学校を卒業したばかりの両親に甘えたい気持ちも残る幼い少年が自分よりも年上の先輩ばかりの環境に身を置くことは想像をはるかに超える苦労や葛藤、寂しさがあったであろう。

しかし、一度も柔道を辞めたい、帰りたいとは思ったことがなかったそうだ。
「自分で決断をして決めたのにこんなことで帰ったら親にも申し訳ないし、ダサいなと思って」と話していたが、この頃にはすでに寮生活を送る中で自然とメンタル面も強くなっていたのかもしれない。周りが学校終わりに遊びに行く姿に少なからず羨ましい気持ちはあったと笑うが、学校へ行く前に早朝から自主練をし、学校が終わるとそのまま練習をする生活を送り兎に角がむしゃらに柔道に専念する学生生活を送り、中学2年生で全国中学校柔道大会66kg級で2位に、3年生の時には73kg級で2位という結果を残す。東海大相模高校へ進学し3年生に高等学校を対象とした柔道のオープントーナメントである金鷲旗高校柔道大会とインターハイで優勝に貢献し、1987年の世田谷高校以来、史上2校目の2年連続3冠という偉業を達成する。

2:初めての挫折と大きな決断

2010年に東海大学に進学し国際大会に日本代表として出場し初めて外国人選手と戦う経験をする。モンゴルやロシア系の選手は接近戦が強く、韓国の先週はスピードが速い、日本は手さばきや組み手などの技術が上手いなど国によってそれぞれの特徴や違いがあるそうだが、それでも橋本選手は感覚で勝てたと話す。しかし、高校生までは数々の賞を総なめにしていた橋本選手だったがこの国際大会での優勝以外の個人戦では苦戦を強いいられ続け、81kg級から73kg級に変更という大きな決断をする。81kg級の中では日本でも身長も骨格も小さく、世界と比べると2回り程小さくなる、そうなると世界チャンピオンにはなれない、階級を下げないと勝てないと判断したそうだが、日本代表強化指定選手にも選ばれていた中で、大学生では2位という位置にいた選手のその判断はやはり周りからも反対され、当時の日本代表監督、井上康生監督にも階級を下げるなら代表選手から外すぞとそれでも下げるのかと問われたが橋本選手の決断は変わらなかった。

同世代や後輩に強い選手が多く結果を残す選手をたくさん見てきたからその決断に至ったというが、それほどまでに拘り続ける勝利への執着と自己分析力、周りから何を言われても曲げない強い意志は6歳から自分自身と戦い続けていた橋本選手だからこそできたのではないだろうか。
しかし、ずっとエリートとして勝ち続けていた橋本選手にとって代表選手から外れたことは「強化選手でなくなったことは普通の大学生と同じだからやっぱり悔しさはあった」と話すように相当な決断でもあり、初めての挫折という経験でもあった。しかし、この決断がのちに大きな成長へと繋がるターニングポイントとなる。

この決断が正しかったのか、さらなる苦悩が生まれるのか・・・。
エリートと称された輝かしい幼少期から学生時代を経て大きな決断と挫折を経験し、社会人となった橋本氏のオリンピック代表選手に至るまでの道のりを後編で聞いていきたいと思う。