GUEST INFORMATION

玉木 パスカル マリエ

株式会社 HEALL OF HEAVEN 代表取締役

株式会社 HELL OF HEAVEN
https://pmdonline.jp/

<ゲストプロフィール>
1987年6月20日生まれ。フランス系カナダ人の父と日本人の母とのハーフ。東京都出身。モデルとしての活動を10歳頃からスタートし、その後「ViVi」の専属モデルやTVでのタレント活動など、多方面で活躍。2011年9月に単身渡米し、ファッション分野で著名な世界3大スクールのうち、NYにある名門「パーソンズ美術大学」へ留学。ファションを専攻し、2012年に同校を卒業。2013年には、NYへのファッション留学から帰国したマリエが贈る、NYガイド付きプライベートブック「マリエLOVE N.Y」(宝島社)発売。 また、某エステサロンの制服デザインやファッション専門学校で講師なども務める。inter FMにて音楽・アーティストとそのファッションの関係性について、マリエが語る60分間の音楽番組を担当するなど、活動の幅を広げている。

10歳の時にスカウトされモデル活動を始め雑誌やショーに出演し、18歳からはTVのレギュラー番組を週に9本抱え年間数百本の番組に出演するなど多忙な日々を過ごし、2011年よりニューヨークに移住しパーソンズ・ザ・ニュー・スクール・フォー・デザインで学び2017年にブランドをスタートさせる。現在は環境省のアンバサダーとなり持続可能な社会の大切さや自然な健康に向き合う生き方を自身の経験から伝えている。ファッション業界におけるサステナビリティの重要性とは、個人の選択が環境に与える影響とは、マリエ氏の想いを存分に話してもらった。

1:ジャーマントレーナーの歴史と出逢い

冒頭でも紹介した通り若くして芸能界で活躍した彼女だが現在はサステナブルなメッセージ性のあるものを「伝える」ということにフォーカスし活動をしている。自身が代表取締役を務める株式会社HELL OF HEAVENにて2017年に「PASCAL MARIE DESMARAIS」というサステナブルアパレルブランドをスタートさせるが、オーガニックコットンやリサイクル生地を使うだけではなく、ボタンなどを含む洋服を作る際に関わる全てのものを見直し、製品の製造から販売、処分そしてデザインへの反映までの循環を重視しブランドを始めたそうだ。そこで、さまざまなアイテムを取り扱う中で特徴的な商品を1つ紹介してもらった。「ジャーマントレーナー」というスニーカーをご存知だろうか。1950年代~1990年代に東ヨーロッパで製造されていたトレーニングシューズで1970年代から1994年まではドイツ軍の兵士に支給され、2000年には再びドイツ軍のトレーニングシューズに採用され現在ではドイツ軍だけではなくドイツ政府関係者に支給されているシューズである。軍用トレーニングシューズとあって機能性と実用性も兼ね備えていることはもちろん、近年ではラグジュアリーブランドでも同タイプのシューズを扱うなど注目度が高いが、面白いことに元々は販売目的ではない軍用品として使用されていたためデザインの商標登録や権利はなく、「ジャーマントレーナー」を基にブランドコンセプトや拘りなど独自に解釈を加えるなどスタンダードなシューズの形として人気を博している。

マリエ氏が環境省のアンバサダーを務めていることもあり1940年代から当時の機械を使ってジャーマントレーナーオリジナルをずっと作り続けているスロバキアの工場から世界初のサスティナブルな試みをしたいと声がかかり製作することを決意するが、背景には実はもう1つ運命的とも言えるエピソードがあった。軍事用品を扱っているため秘密保持などが関係している説もあり理由や詳細は定かではないが当時のドイツでは10年単位で全ての工場の機械や型紙を廃棄しないといけないという決まりがあったそうで製造終了後すぐに全ての機材を廃棄していた為、直近のモデルしか残っておらず過去に製造していたジャーマントレーナーの詳細は謎のままだった。しかし、1994年タナカユニバーサル社の創業者であり伝説のシューズデザイナーとしてすでに世界で活躍していた田中清司氏が、ジャーマントレーナーを製造し終えた靴工場で廃棄前の機材を発見し、それを基にジャーマントレーナーを作り始める。デザインや機械を守り継承したのが日本人だったこの話に感銘を受け取り組みを決意したのはもはや必然的だったとしか言いようがない。

2:ポリシーとチャンス

様々なアイテムがある中で1つのシューズにおいてもしっかりと思いやストーリーがあり、それを話し伝えようとする姿勢を見てマリエ氏は、商売人ではなくアーティスティックで感受性豊な人なのではと、だからこそ苦労したのではないかと聞くと「最初はすごく嫌がられましたね」と笑っていたが、この熱量に共感し商品に対して真摯に向き合える人こそが良さが分かるブランドなのではと思った。卸先である取引先関係者がマリエ氏の商品に対する想いをどこまで引き継いでくれるか、想いを消費者へきちんと届けてくれるのか、双方の気持ちが合致しないと容易に取り扱いができない為、届けたいのに販路が見つからない、なぜ伝わらないんだろうと悔しい思いもたくさんしてきたそうだ。終わることは悪いことではない、だが自分は一体なにが続けたくて会社を立ち上げたのか、自分のポリシーってどこにあるんだろうと常に自分を奮い立たせ諦めずにやってきていると振り返った。サステナブル=持続可能は環境だけに限らない社会においても同様だと長野の少年院の子供たちにポーチの製作を依頼したりと既存の縫製会社ではなく新しい可能性を持つ人々と協働している。どうして少年院の子供達に依頼しようと思ったのか尋ねると自分の経験を踏まえて人はいつでもやり直せる、特に若い子には諦めないで欲しいからセカンドチャンスのきっかけを与え、新しい才能を発見する機会を提供したいと考えているそうだ。気づかなかった自分に出会えるチャンスを手助けし、キッカケを開いていく時もあると続けてくれたが、自分の才能は意外と自分では気づかないことが多く誰かがポンと背中を押してくれたり、達成した満足感や褒められた時の高揚感などを味わい、そこから一気に開花することも稀ではない。特に子供となれば周りの環境や人も大きく影響する。周りにいる大人が手を差し伸べ選択肢を少しでも多く提示してあげることは非常に大事なことだ。罪を犯してしまった過去は消すことは出来ないが未来ある少年や少女が新たな一歩を踏み出すきっかけになっているこの取り組みは賞賛すべきだと私は思った。

3:ファッションとオーガニック

売れっ子で多忙を極めていた当時から環境問題や次世代の若者への想いや考えははあったのかを聞くと「全っ然、ないですよ」と気持ち良いくらいに笑って答えてくれた。18~23歳までどっぷり芸能界に身を置き、週にレギュラー9本に加えゲスト出演、更には雑誌の専属モデルや取材もこなし休む暇がない中でも若さゆえの遊びたい盛りも相まって仕事もプライベートも多忙を極め、自分の本当に好きなことを見失っていたことに気づき、ある時にファッションへの情熱を再認識したそうだ。11歳の時からニューヨークのパーソンズに行きたいと親にお願いをするほど洋服作りが好きで小学校の自由研究ではワンピースを作り、遠足が決まった瞬間から遠足に行くコーディネートを考えるほどにファッションが好きだった。その思いがいつからかモデルへと移行し「好き」を貫いたからこそ、その先に責任が加わりいつしかその責任が重くなりツラくなる、でもやめられない、乗り越えたい、乗り越えようと必死になり遂には「自分を完全に見失っていた」と今は当時の自分を客観視できるが、実際には人と喋れない、外に出れない、体のあちこちが不調と気付けば心身ともに健康ではなくなっていた。その後このままではダメだと23歳でニューヨークへと留学を決め環境が変わると自分と向き合う気機会が増えまずは健康な体を取り戻したいと思い、方法を模索している時にちょうど当時のニューヨークでブームだったオーガニック商品に出会う。何十個も処方されている薬を見た友達にそんなの要らないからやめなよと言われ、勧められた無農薬の野菜がいいと聞けば試し、周りの友達を信じ色々と続けていくうちにみるみる健康を取り戻したそうだ。自分を健康にしたいと始めたことがぐるっと回って地球を健康にしてあげる選択肢に繋がるんだと気付き、オーガニックの野菜を買えば農家さんを応援することに繋がり儲けが生まれる、土が喜び地球が健康になるとまた自分に健康な食べ物をもたらしてくれ循環が生まれる。「地球を綺麗にしようとただ言いたいだけではなくて、自分がどうなりたいか、自分のことを1番に考えていいんだよって伝えたい」と話す通りにまずは自分を健康にしたいと始めたからこそとても説得力があり綺麗事ではなく本心で伝えてくれているのが強く伝わった。

現在のブランドについてから始まり多忙な芸能活動を経てニューヨークへの留学、そして心身の変化などを聞かせてもらったが、きっとまだまだたくさんの経験をしてきたであろうマリエ氏の過去と現在を後半でもう少し聞かせてもらおうと思う。