GUEST INFORMATION
河谷 逸史
株式会社Stables
https://www.stables.jp/
飲食人(食を通したエンターテインを企画運営実行する人)、サービスパーソン
・1973 年 東京育ち(渋谷区生まれ、板橋区育ち)
・新卒時代から飲食業界に携わり、2008 年から(株)ワイズテーブルで新規事業の立ち上げを牽引。
・2016 年から(株)LUMINE の飲食戦略事業 PJT 運営面での立ち上げから、その後の法人化に従事
・4 人家族、2 人の子どもを持つ父親。
・趣味/読書、スキー、朝ラン、水泳など
・極真空手 4 級(緑帯)
LUMINEの子会社でもありアメリカで2012年にオープンしたナポリピザレストラン「800°DEGREES NEAPOLITAN PIZZERIA 」を運営する株式会社stablesの営業部/企画部統括部長の河谷氏をお迎えし飲食業界に入ったきっかけなどを交えて話を聞いた。
1:マスコミ志望から飲食業界へ
飲食業界に入りたいわけではなかったと冒頭から驚きの発言が飛んできたが、自身の父と祖父が新聞記者や新聞業界に携わっていたことからマスコミ業界に行きたかったそうだ。就職活動もままならない状態や自分を過信していた部分もありテレビ局や制作会社など全て落ちてしまい、何もやることがない時期に友人から赤坂見附のスナックの立ち上げの話をもらい参加する。後に名店と呼ばれることとなるお店だが当初は乗り気ではなかったそうだ。20代前半には松田優作が好きだったこともあり文学座の研究所に在籍し俳優を目指していた時期もあったそうだが自分に演技の才能がないことに気づき20代中盤からしっかりと本腰を入れて飲食業に打ち込むようになる。それには共に働いていた学生時代からの友人が一生懸命仕事をしている反面、自分はのらりくらりと仕事をしていた自分に喝を入れられ、別の友人が当時働いていたお店に来て自分を見るなり、「まだこんなことやってんだ」と言われ悔しい思いといつか見返してやろうと思ったと、この友人2人の言葉が河谷氏の飲食業界に本格的に入ったきっかけだそうだ。当時は株式会社グローバルダイニングが飲食業界を牛耳っており20代のマネージャーが年収1000万円を超える様な時代で、河谷氏もグローバルダイニングが手掛けるお店へ足しげく通いサービスや接客などを全てつぶさに見て研究をしていた。その頃に働いていた銀座のお店でも実践をし銀座で1番挨拶のいいお店を目指し元気な大きな声で仕事をしていたところ周りからもすごい変わったねと言われ、お客さんからもありがとうと言われる機会が増え自ずと売り上げも上がっていきモチベーションも上がっていった。なんとなく踏み入れた飲食業に腹を据えてやってやると決意の表れが行動と売り上げに繋がり更に自信へと変わったのかもしれない。
2:新たな扉
働いていた銀座のお店が事業拡大をしない経営方針ということもあり、違う扉を開けてみたいと30代を超えた頃に幾つかの居酒屋やバーの立ち上げプロジェクトに参画する。そして30代前半に個人事業主となり前出のグローバルダイニングの敏腕マネージャーだった古里氏から西麻布のコンセプトバーの現場コンサルティングの依頼がくる。売上よりも人件費が高いなどの赤字経営だったお店のコンセプトを180度変え接客を重視する営業スタイルに一新したことで売り上げが5倍となりV自回復を果たす。その後も様々な業態の立ち上げに携わるが共通点として大事なことは「気合い」と話すがポジティブなゴールを設定するがそれまでのネガティブシュミレーションのマイナス要素を潰して1つ1つ形にしていく作業が好きだと話す。また経験を重ねていくうちにノウハウが蓄積されていくことや人との出会いと新たなチームを作り目標に向かってみんなで一緒に作り上げ盛り上げていくことが性格に合っていたそうだ。20代から様々な経験をしてきた河谷氏だがやはり出会いを大切にし機会を掴み、相手の期待を裏切ってはいけないと締切や納品を誠実に応えていたからこそ繋がっていった賜物ではないだろうか。
3:苦悩と失敗からの新たなる決意
出会いがある分、苦悩や失敗の経験もあのずとある。河谷氏もクライアントの倒産によりメインの収入を失い訪問販売をし先輩のバーで間借りを売上をいただいたりレストランのキッチンを手伝ったりとなんとか食い繋いでいた時期もあったそうだ。その時に当時付き合っていた人と一緒になりたいがこんなフラフラしている自分に身を預けるのはどうなんだろうと思いもう1度会社に入るのも1つの選択肢として良いのではないかと、もう1度自分の実力を試してみたいと友人や紹介ではなく全く知り合いのいない会社に行こうと決意をする。これだけ人の繋がりがある河谷氏だがその繋がりに甘んじることなく敢えて繋がりのないところに飛び込むとは強い決意と勇気、男気すら感じた。選んだのがワイズテーブルコーポレーションに門を叩き早々の2年目に新店の新業態の立ち上げを任される。オペレーションをイタリア語で回すなど慣れない環境で毎日蕁麻疹が出るほどに大変だった日々を過ごすがその後、都内のみならず全国各地、台湾などの海外進出の新規事業に携わる。
経験や実力の成果が認められたとは言え順風満帆の様な気がするが本人はもう少し真っ直ぐに生きていればこんなに苦労しなかったと笑っていた。きっと楽な選択肢が目の前にあったとしてもそっちを選ばず過酷な方を選びその環境すら楽しんでいくひとなのではないだろうか。
人との出会いを大切に失敗を恐れずにポジティブに挑戦し続けることで豊富な経験と実績を積み重ねてきた河谷氏の未来の展望とは。後半で深掘りさせて頂こうと思う。